対人恐怖症の原因を発見し悟りを開いた僕。

対人恐怖症の僕がゼウスの神をも超えた?その悟った理由を惜しみなくお伝えしようと思ってます。

対人恐怖症になる人類共通のメカニズムを教えてしんぜよう。

対人恐怖症になる人類共通のメカニズムを教えてしんぜよう。

 

ということで、神ゼウスのような人間を見下したような上から目線で

今日は対人恐怖症のメカニズムを自分の体験を通して教えてしんぜよう。


自分は、「なにか自信げに偉そうに、余裕ぶっこいている人」
が嫌いだった。

なぜか?


そのなぜか?の問いに答えることが実は対人恐怖症が生まれる仕組みを理解する上では

とても重要なので、このまま続ける。

基本、人間は自分は間違っているし、人にどう思われているかビクビク、おどおど、

恐怖、不安を感じっぱなしの動物だ。


そんなことない!っていう人もいるけど、それは感情が麻痺しすぎているか、もしくは、

演技をして楽しそうにしているだけ。

だから、人類、人間はみんな全員あますところなく、対人恐怖症になるので、

そこは変な意味にもなるかもしれないけど、安心してもらいたい。

 

さっきの話しに戻るけど、

「なにか自信げに偉そうに、余裕ぶっこいている人」は、ぶっ殺したいほど
ムカつく人種だった。

「何、てめぇ、偉そうに、ぶちかましてんだ?」とメンチを切って因縁をつけちゃう
ビーバップハイスクールに出てくるチンピラのように。

その偉そうにしている人をみても、事実情報としては、顔の表情や、言葉のチョイスが違うだけど、ただ、ただ、そう。という事実に対して、

わざわざ自分が感情を揺さぶられることはないのに、なぜ?

それが自分の無意識のさらに奥にあるアイデンティティーが原因になる。
なってしまう。


人間共通のアイデンティティーが「私は間違っている」だから、
(※これは真理からみた観点で人類が戦争が終わらない原因にもつながるが)

何を思ったのか、勝手に自分が、下のポジションにすっと入り、余裕ぶっこいているヤツを
上司、つまり上のポジションにおいてしまう!

無意識に!

 

自分は昔から上下関係のないフラットな社会を作りたい!と豪語していたが、実は
自分でみずから、下にへりくだり、上を存在させて、自分で上下関係を構築していた、とは。

 

なので、そこで妄想力がさらに加速され、上の人だから、下のものをこき使うんだ。

しかも、北斗の拳に出てくる帝王サウザーのような傲慢な態度でヘラヘラ、ニヤニヤしながら、平気で人を殺すような傍若無人な振る舞いをするヤカラ、というレッテルを貼ってしまう。


なので、自信満々、自分が正しい!と強く主張する、余裕ぶっこいている輩などは、
自分の中では勝手に、帝王サウザー化してしまう。

自分は帝王サウザーに従順に従う下僕なので、その下僕のような人をみると
変に安心?してしまう。

「あ、仲間だ」と。

その下僕のレッテルを貼られる人の特徴としては、謙虚で、腰が低い、相手に合わせて自分を殺す、という一見、

 

日本人の美徳に触れて心地よくなってしまうが、それが大きな罠。


上下関係の下ポジションの下僕を選択してしまうというアイデンティティーにつかまれて、

それが固定されて苦しんでいる原因ということを発見できない人生は辛い。


それはまるで、自分が正しいことをしているつもりでも、自分を下に置き、相手を上にして、
その上にした相手に対して、

無意識に平等じゃない、上のものは、下のものを労るべきだ、というニーチェ が唱えた
ルサンチマン状態になる。

と、ここまで読んでみて、あなたは何を感じますか?

あぁ、ゼウス豊は、そんなこと思ってたんだ、最低ー、最悪ー、いやいや、共感できるよ、僕は、などなど。

様々な意見が飛び交うかもしれないが、実は、ここに書いた内容は、全人類共通の仕組みのことを語っているので、

 

あなたも含めて、みんな下僕なんですよ!と言いたい。


そう、下僕。

 

自分以外は、みんな帝王サウザーだ、と思い込んでいる。

えー!そんなー!私は自分は下僕的な生き方じゃなくて、自由に振る舞っていきているよ、という人もいるかもしれないけど。


しれないけど、自由なんてどこにもない。

あなたが、創造主の神超えをしないかぎり。

人間がこの世界に産み落とされて、「違い」と「違い」が出会い、争いが起きるように

初期設定されているので、しょーがない。

本当にしょーがない。

その「違い」が出会うと2つの選択肢しかない、実は。

「違い」に出会ったら、その「違い」を相手に押し付けるか?もしくは、従順に「違い」を

受け入れる下僕になるしかない。

え?


違いを認め合って生きているよ、私は。という人もいるかもしれない。

 

けど、違いを認めるって想像を絶するほど難しい、というか不可能。

「違い」を受け入れるとは、あなたの人格が丸ごと全否定されても、それを楽しく、ワクワクし、最高!とアドレナリングが出まくる状態のことを言う。

それ、できます?


なので、違いを認める、受け入れることは、人類史ではまだ起きてない。

だから、800万年間もの間、いっときも戦争が終わらなかった、ということになる。

なので、「違い」を認める、受け止める方法は1つしかない。

自分というキャラを丸ごと全否定されても、楽しめる境地・・・・。

それが、この自分が錯覚であり偽物だから、自分を全否定されたとしても
楽しめる境地、つまりは、

映画俳優の役者だ、というフリをすることができる人生になること。

え?フリ?

フリというと嫌な印象を受ける人もいるかもしれないが、
フリというその演技の前に、実は、


この世界は実在しない、ということが、明確に理解、納得、確信する必要がある。

つまりは、映画の中のスクリーンの中の登場人物の1人として自分はいる、という感覚。

なので、ストレートに言っちゃうと、それは人間が悟らないとイメージできない。

悟りの1段階としては、まずは、自分がない、自分がみている全ての物質、エネルギー、なにもない。を理解すること。

 

そして、自分のアイデンティティーが無そのものになり(※本当は無という概念もない世界だが。)この現実世界を映画俳優のように、演技、フリをして

生きる生き方。

 

それをすることが、人類から戦争を根絶する唯一無二の方法になる。

 

もっと言い方を変えると、全人類から、対人恐怖症を撲滅した瞬間に、世界平和化されているということになる。

世界は、人間からできている。

 

人間は、あなたという1人から始まる集合体。

 

対人恐怖症になる人類共通のメカニズムを理解し、それを活用することで

対人恐怖症が本当の意味で解決できる。

 

対人恐怖症を解決できた人は、一時的な快楽を得ただけであり、無意識深くには

恐怖、不安が残存してしまっている。


と、ゆーことで、今日は、対人恐怖症になる仕組みを理解し、それを活用する

フリ感覚、偽物感覚を楽しむ、というHowのパートまで

お伝えすることができた、と思います。


ありがとうございましたー。

 

全人類が対人恐怖症だったという衝撃的な理由とは?


全人類が対人恐怖症だったという衝撃的な理由とは?

 

これは間違いない、と確信してます。

 

ずっと対人恐怖症で悩み、苦しみ、解決をしようともがき続けた人生だったところから、

人間共通の「自己否定」する仕組み、人類すべてが実は「対人恐怖症だった」メカニズムがある真理を活用した技術によって、

 

分かったので、それをお伝えしたいと思います。

 

人類が全員対人恐怖症?

 

「人間関係が良好で、私、人と会うのが好きなんです、対人恐怖症なんかじゃないです。」

という人がいるかもしれません。

 

その人は残念ながら、深い感情が麻痺しているか、もしくは、人と会うのが怖いのに、「怖くない!」という演技をしている、その可能性が大きいと思います。

 

じゃぁ、なぜお前がそんなに確信を持って全人類が対人恐怖症であることが言い切れるかというと・・・

 

人間がこの世に生まれ落ちた瞬間に、「罪」というレッテルを自ら貼り、

正しさを求める。


そして、その正しさが見つからず、人生を終えてしまう。

 

それが人類の歴史だ、とも解析できますが、人間という個は、宇宙、自然、歴史文明と繋がって存在しているのに、

 

日々の日常生活の中では、ビックバンがあって「今、歩いてるな」とかは

自覚して生きてない。

 

常に、自分の皮膚の内側が「自分だ」という認識のもと、生存欲求にかられて

馬車馬の如く、目の前のお金儲けをすることに翻弄し、忙しくすることが

 

まるでステータスの如くに、奴隷人生を送ってしまうのです。

 

これは、よく300年前の教育がいまだに行われている、とも、まことしやかに囁かれていますが、

 

存在があり、それが動く、という心身二元論ニュートンデカルト認識方式だ、という人もいます。

 

そう。

 

個人主義で、拝金主義社会を生み出した、人は闘争し続ける、というエゴ拡張が

資本主義社会の富を潤す、みたいな思想とも繋がる。

 

けど、量子力学の発展によって、波動が、粒子化する、というのが、だんだん常識化しつつある昨今、その教育が自分たちの中にも浸透していかなくてはいけない

 

「はず」なのに、個が動く、という常識的な世界観をひっくり返すことがいまだにできない教育水準に留まっています。

 

人間だけじゃなく、宇宙、自然、ビックバン、植物、動物、光、闇、などなど。

 

すべてと繋がり合って人間という個がある、という認識方式ではなく、

バラバラの個人が存在するという認識方式である人間の世界観は、

 

エゴを助長させて経済を回しているという仕組みの中のラットレースに生まれた瞬間から、それが当たり前の如くに、走らされてしまっている。

 

なので、人と出会うと、「敵だ」と認識しやすくなり、相手を蹴落とす、という行動にまで発展してしまう。

 

いやいや、人との協力体制が重要な社会になりつつあるよ、という意見もあるけど、

 

その協力体制を作る大前提も、恐怖、不安の感情が出発になっている。

 

なにせ、人間の認識方式が、バラバラで、個人が存在している、というのがベースにあるから。

 

300年前の教育がベースに、今を生きている自分だち。

 

分離、断絶、他人は、赤の他人、という個人主義、拝金主義社会。

 

こんな社会という環境では、人間は、もちろん、無意識では

 

対人恐怖症で、常に、ビクビク、おどおど、しっぱなしです。

 

もし、「人が好きで私、対人恐怖症じゃないです!」って豪語する人がいたら、

 

あ、無理してるな。頑張って生きているから、労わってあげよう、という優しいまなざしで見守ってあげてください。

 

以上。

 

今日は、全人類が対人恐怖症だったという衝撃的な理由とは?

 

という内容をお届けしました。

 

ありがとうございました。

 

対人恐怖症の明確な原因を発見した僕。

今日から、はてなブログで、「対人恐怖症の僕が悟った理由」みたいな内容を

書き込みしようと思う。

 

いきなりエピソードから、スタート。

 

自分が高校生ぐらいから極度の対人恐怖症で、道を歩いていて、遠くの方から

友達が歩いてきただけで、

 

「すれ違いに何を話していいんだろう・・・。」と心臓バクバクっ!超ドキドキっ!しすぎて、

 

あまりの恐怖に、振り返って、ダッシュで、今まで歩いてきた道を後戻りしてしまう。

 

なんてことがありました。

 

そんな極度の対人恐怖症で苦しみ、その緊張からか体中に力が入り、筋肉が引き締まり、鉄板のようにガチガチの肩が凝り、

 

そこから頭に血液も廻らなくなり、毎日、頭痛との闘いでした。


そんな苦しみに耐えて日々、生きていたので、もちろん「嬉しい感情」なんて

味わったことがありません。

 

なんで、こんなに緊張し、こんなに体が痛くて、頭痛との闘いを日々しなくちゃいけないんだ?なんのために、生きているんだ、一体、俺は。。。。(涙

という生きることに絶望し、1秒で早く死にたい、とずっと思って生きてました。

 

そんな苦しい日々も何とか楽になりたいと思い、肩こり、頭痛に効果がある方法は

あらゆるものに手を出して、試してみました。

 

電気療法、リラクゼーションの講座、深い呼吸、食事療法のマクロビオテック、ナチュラルハイジーン、玄米採食、運動、ヒーリング、あらゆる自己啓発セミナー、あらゆる楽になると言われているスピリチャルのセミナー、などなど。

 

しまいには、宗教に入り、宗教活動を10年間もずっとし続ける始末。

(※宗教にはまり込んで、宗教の職員になり、宗教で飯を食ってました。)

最終的には、悟るしかない!と思い、インドに聖者がいるとのことで、会いに行き、

ひたすら瞑想修行を。

 

だけども、自分の中にある恐怖、不安はまったく消えることがありませんでした。

 

その結果、頭痛、肩こりはますます酷くなり、もう死んだ方がいいかも・・。。、と

諦めかけたときに、

 

わびさび、間という日本人が昔から感覚として捉えてきたものを、教育体系化に成功したnTech(認識技術)というものに出会いました。

 

それは、主体的に悟りをイメージできる技術でしたが、最初は、何のことか良く分からず、学ぶ気にもなれませんでしたが、

 

あれよ、あれよ、と、気づいたら、その真理の奥深さに興味をひかれ、その技術を学び、実践していく中で、

 

悟りすらもない「悟り」の境地に達した時に、恐怖、不安もなく、それと同時に肩こり、頭痛もすーっ、と消えてなくなってしまいました。

 

(※悟りすらない、悟り、って一見、矛盾に感じるかもしれませんが、言葉化ができずm)

 

そんな体験から、対人恐怖症は、実は、人間全員が、そうだった。という事実も分かり、

 

ただ、麻痺して感じないか、恐怖、不安がある癖に、それを偽っているか、その違いだけっていうのにも気づきました。

 

なので、人間共通で、恐怖、不安が生まれてくる仕組みが理解できたので、

それも今後、伝えていこうと思っています。

 

対人恐怖症の明確な原因を発見したので、興味のある方は、メッセージください。

 

それでは、また次回。